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未来派図画工作のすすめ/自由ノート

ねぐらいり

先日、マガンのねぐら入りを見る機会にめぐまれた。鮮やかな夕日が山の向こうに落ちていく、ほんの1時間ほどの時間。東西南北すべての方向からガンの群れが集まってくる。その数は数万羽。

群れと群れが入り乱れて、小さな粒子が風に舞うようにも見える。幾重にも重なった鳥達の鳴き声。その壮大な大劇場にただただ圧倒されるばかり。

本来、田んぼには5668種類もの生きものたちが集まって、それぞれが関係しあう事によって、大きな自然の営みのバランスを形成する。そのバランスが一旦作られると、特定の一種類の生物や植物が大発生する事もなく、循環する生態系が作られていくという。その生態系には先ほどのガン達も、我々人間も組み込まれている。

「蕪栗沼ふゆみずたんぼプロジェクト」。これは冬に田んぼに水をはることで、生物の多様性を促進しながら、より自然と共生した農業を営むことを目的としたプロジェクト。様々な分野の方々が集まって、知恵を結集し、新しい農法、新しい生き方というものを模索されている。

そこには都市で消費されるための米を、疲弊しながら作るというイメージは全くない。人間が持っていたはずの、生物としての本来の価値観を復活させ、多様な生物が織りなす循環の中に一歩足を踏み入れる。その結果として収穫物を入手する。という営みの形成である。

マガン達の群れを見ながら「粘菌の動きは鳥の群れに似ている」という言葉と「田んぼの中のイトミミズは、腸の消化の動きに似ている」という言葉が頭を巡った。ミクロな循環とマクロな循環がフラクタルとして構築されている世界。私たちの体内で行われている営みは、実は地球規模で行われている営みと同一なのではないかという妄想をしてしまう。

日本人は極端に効率化を求めすぎたのではないか。効率化の先に何を見いだすのか。よく分からなくなっている。ちょっとしたゆとりと想像力を持つ事で、生物の連環の中に入れるというのに、それを無駄な事としてとらえてしまっているのではないか。

もし経済やデザインや科学がそうした無駄を排除する事を加速させているとしたら、その定義をもう一度見直さなければならない時期に来ているはずだ。

隣でガンの群れを眺めながら、絵本作家の葉祥明氏が「このような光景に感動できるのであれば、まだ人間は大丈夫だ」とつぶやいていたのが印象的だった。私は、こうした光景が何よりも美しいものである事を、より多くの人に知ってもらう事が、われわれ表現者の義務の一つであると思う。

Photo by raihan n. aziz on Unsplash

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