未来派図画工作のすすめ/自由ノート

The darkest nights produce the brightest stars…
極小の先の無限

HITSPAPERが主催する「NIT」というイベントにて、ひも理論を研究されている橋本幸士さん、サイエンスコミュニケーターの林田美里さんとお話しする機会に恵まれました。いつもはお会いする機会がない分野の方々との語らいは、とても新鮮で刺激的でした。そこで私は、恥ずかしながらも、ずっと気になっていたことを聞いてみることにしました。

「私が壁を触るとき、私を構成している素粒子と、壁を構成している素粒子は混ざりあったりするのですか?」

地球をすり抜けていくような、小さな小さな物質ですから、モノとモノが接触するときに、まるで砂のように混ざっているのではないかと妄想していたのです。その妄想は以前「光線のワルツ」という作品を作る上での原動力にもなりました。

「混ざりあっていると思います」

橋本さんはさらりと言いました。混ざりあっている!それは私にとって大きな衝撃でした。モノとモノは境界で混ざりあっている可能性がある。ということは、境界は動的で変化に富んだダイナミックな波打ち際のようなもの?人と人が触れ合っているときも、境界では素粒子レベルで混ざりあっている?
世界の見え方が変わるかのように、妄想はどんどん広がります。

科学者の方々が持っているまなざしは、デザインやアートと共通する部分があるはずです。しかし見えている光景はおそらく我々よりも、もっともっと大きい。素粒子という現在最も小さいとされている物質の先に、宇宙全体を記述する理論の気配を感じ取っている。そしてその理論は、研究している科学者の思考や、それを読み解く構造までも包含した、あらゆるものを記述できるかも知れない可能性がある。

もし仮に人類がそうした究極的な理論に到達したとしたら何が起きるのか。全く想像がつきません。意識が決定的に変わって、より生物として進化した存在へと向かっていくのか、逆に生きる意味を見いだせなくなってしまったりするだろうか。

どうか、日々の小さな幸福は、変わらずに僕らの周りにいてほしい。と思ってしまうのは、自分の視界が狭いからだろうか。それとも極小のものから無限大のものが見えてくるように、小さな幸福の先に大きな調和の気配を微かに感じているからなのだろうか。

 

Photo by Aron Visuals on Unsplash

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