未来派図画工作のすすめ/自由ノート

海の盆

存在しない漠然としたものに寄りかかって、安心を手にしている。それは震災の体験から気づいた事でした。それは防災に対してもエネルギー問題にしても同じ事。

自立した生活というものが実は幻。 祭りという行事も同じ。それは毎年自動的に開催されるものではなく、舞台裏では開催に向けて多くの人が準備に時間と労力を払っている。

そしてその規模が大きくなりイベント化してしてしまった祭りは、協賛金をいかに集めるか、どうやって毎年運営していくかということに頭を悩ませているのが現実ではないでしょうか。

 

明日のための原点回帰

私はこの夏「松島流灯会 海の盆」という祭りの準備に参加しました。この祭りは地元の町民が中心となって作り上げた祭りです。観光に携わる人から、自治体、僧侶、漁業、一般住民など、様々な分野の人々が集まり、手探りの中準備は進みました。

そこで気づかされたのは、祭りの準備というのは本当に大変な労力が必要だということです。内容をどうするかという事はもちろん、経費や警備、ボランティア、駐車場などもふくめて、綿密に計画を立てなければ、当日スタッフはパニックになってしまうでしょう。

経験の少なかった我々実行委員会は、仕事以外の時間のすべてを費やして、準備を進めました。 期間中は、天気にも恵まれ、すべてが順調に、無事に完了する事が出来きました。祭りの光景の一つ一つが輝いて見えましたし、子供達の自然な笑顔や、遠くの海を見つめる供養のまなざしにも心を打たれました。

継続するもの

地元の人が中心となって、地元の人たちが楽しむ。地元に取って必要な祭りこそが、自然に継続していくのだろうと確信しました。そこには背伸びした演出も、身の丈に合わない協賛金も必要ありません。(運営費は必要です:笑)必要なのは楽しみながら祭り作りに参加する人々です。

実際私の中の祭りのイメージはがらっと変わりました。本当に充実した心に残る体験が出来たのです。 結局のところ、私たちは存在しないものに寄りかかっている事に気づかなければならないと感じます。

誰かがなんとかしてくれて、それをお金で買うのではなくて、自分たちで楽しみながら、なんとかしていく。それが地方都市やもっと小さな町、コミュニティに必要なんだと思うのです。

 

前の投稿
本の一回性
次の投稿
ありがとう、さようなら

Latest

Random Pickup

メニュー