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未来派図画工作のすすめ/自由ノート

Arena
Páraic Mc Gloughlin

アイルランドのアーティストであるPáraic Mc Gloughlin氏の作品「Arena」。Google Earthの画像を素材としていて、1フレームごとに別の場所の写真をつなぎ合わせて、地図が自在に動き出すような、連続的なアニメーションを作り出しています。

彼のインスタグラムもオススメです。

https://www.instagram.com/paraicmcgloughlin
一揆
勝俣鎮夫

この本を読むまで、一揆は、抑圧された庶民たちの怒りの行動だと思っていました。我慢に我慢を重ねて、限界に達した時、その力が権力に向けられる。そんなイメージでした。もしかするとこれは昔遊んだ「いっき(サン電子)」というビデオゲームの印象もあるかもしれません。

日常性を超えた問題、通常の手段では解決不可能な目的を達成するために、現実性をこえた特殊な集団として結成されたのが一揆である。勝俣鎮夫著「一揆」

もちろん一揆の最終局面として強者に対する弱者の抵抗、という一面はあったはずです。しかし、私が何よりも驚いたのは、一揆が「合意形成のための装置」だったという所です。コミュニティにおける中立的な意思決定。神のような「大いなるもの」を媒介とした人と人との連帯。そして、私的な縁をこえたところに生まれる公正さ。そうしたもののために一揆は存在していたのです。

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日本の中世は一揆の時代といわれる。この時期、あらゆる階層や地域に、共通の目的達成の手段として一揆が結ばれた。勝俣鎮夫著「一揆」
一揆に参加するためにはメンバーそれぞれの、社会的存在の諸関係を断ち切らねばならない。今日的にいえば「運動」に近い性格をもつものといえる。勝俣鎮夫著「一揆」
一揆結成なくしては、日常の場においては合議にもとづく公正な意思決定がなされない考え方が強く作用していた。勝俣鎮夫著「一揆」
メタファー思考
瀬戸 賢一
抽象的な思考対象について何かを語ろうとしたり、思考を巡らせようとしたりするとき、メタファーの登場は必然となる。 瀬戸賢一著「メタファー思考」

「意味を掴む」という表現はよくよく考えていると不思議な表現です。なぜなら私たちは物理的に意味を手で掴むわけではないからです。しかし、こうした喩え表現によって、もやもやとした抽象的な概念が、あたかも物や空間のように変貌し、私たちは「なるほど」と納得することができるのです。

私はビジュアルデザインの背景を探ろうとする過程でこの一冊と出会いました。実はこの本に出会うまで、メタファーは表面的な「喩え」を示しているぐらいの印象しか持っていませんでした。しかし、メタファーは人間が世界を認識するために必要不可欠な、強力な思考ツールであることに気づかせてくれました。それ以来私はメタファーの虜となり、その奥深さに魅了され続けています。

ユーザーインターフェイスにもメタファーはよく登場します。パソコンの画面をデスクトップと呼んだり、ゴミ箱のアイコンを用いるのも、捉えどころのないデジタル世界を、身体的に理解するため工夫なのだということがわかります。最近だとクラウドという喩えによって、どこからでもアクセスできる天空にデータが存在しているようなイメージが作られています。

こうしたメタファー表現は、対象となるものが抽象的で捉えにくいものであるほど効果が大きいようです。ということは、これから登場してくる様々なテクノロジーを理解するためにも、私たちはメタファー表現をどんどん活用していくことになるのでしょう。

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存在のメタファーは、言語的思考の出発点をなすメタファーであるといってよい。あらゆる思考対象をこの世に存在する「もの」と見立てるメタファーである。この世に存在すると見立てられたものは、この世に「ある」と考えられる。 瀬戸賢一著「メタファー思考」
メタファーは、常に具象を耕し、抽象を生む。しかし、この抽象の実は、純然たる抽象ではない。具象の種から育った抽象である。だから、私たちは、言葉を感じることができる。 瀬戸賢一著「メタファー思考」
喜怒哀楽の気持ちが心の中にあると考える。ある気持ちや思いや感情は、ひとつの「もの」として、心の中に「ある」心も私たちの身体のどこかにある。 瀬戸賢一著「メタファー思考」
屋根の日本史
原田多加司

人が自然の中で暮らしていくためには、自然との仕切りが必要になります。ゴットフリート・ゼンパーが19世紀に出版した「建築の四要素」にも、屋根・皮膜(壁)・炉・土台が取り上げられていますが、その中でももっとも重要なものが、屋根でではないでしょうか。屋根は夏の日差しを遮り、雨や雪から守ってくれる存在。壁と違ってプライバシーは確保できませんが、屋根は人間が生存していく上で必要最低限の自然との仕切りになるはずです。

この本は、建築の「屋根」に焦点を当てて、風土や文化の側面から日本の古建築の歴史について語っている一冊でした。縄文時代の竪穴式住居は屋根そのものが住居であるという点や、屋根は単に寒暑や雨露をしのぐためのものではなく、象徴性、身分の格差、芸術性といった多くの属性が形になったものである、という屋根に対する独自の考察です。

ということは、屋根は人の暮らしや思想が形となって現れたもので、屋根を見ればその土地の風土や文化、人々の営みなども見えてくる証として捉えることができます。さて今の日本の屋根から何が見出せるのでしょう。そんなことを新幹線の車窓に流れる住宅地を見ながら思ったのでした。

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屋根の形は世界中を見渡しても実に様々であり、その国の気候風土や伝統、生活様式、また材料、技術などの違いによって、多くの制約を受けながらも今日に至っている。原田多加司著「屋根の日本史」
日本の建物の歴史は縄文時代の竪穴住居にはじまると考えられるが、その最初の建物の形態を決定していたのは屋根だけだった。原田多加司著「屋根の日本史」
屋根が、建築空間とその上空を仕切り、自然と人間の生理の矛盾を緩和するという本来の目的から離れたとき、屋根は単に寒暑や雨露をしのぐためのものから、象徴性、身分の格差、芸術性といった多くの属性を負う運命に変わっていった。原田多加司著「屋根の日本史」
MIND HACKS
Tom Stafford (著), Matt Webb (著), 夏目 大 (翻訳)
脳は常にある想定のもとに現実世界に対応している。Tom Stafford著「MIND HACKS」

なぜ影の表現を加えると奥行きを感じるのでしょう。影だから当たり前と、無視してしまうこともできますが。やはり、奥行きのないものに奥行きを感じてしまうという、認知の不思議さを見逃すわけにはいきません。

この本は脳の科学的な検証を元に、人間はどのように知覚を使って世界を認知しているのか、見るということはどういうことか。という認知の秘密を学ぶことができます。私が日々デザインに携わる仕事をしながら、疑問に思っていたことの原理を鮮やかに紹介してくれる一冊でした。

視野内にあるはず盲点に何故我々は気づかないのか。脳がどんな前提で視覚情報を処理し、自分をごまかしているのか。この本を読んで以来、私は「見る」ことについての捉え方が大きく変わりました。ユーザーインターフェイスデザイナーだけでなく、広くビジュアルデザイナーにもおすすめ。デザインを考える上で欠かせない、認知の科学的背景を知ることができます。

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脳内には1000億の神経細胞があり、互いに電気信号をやりとりしている。脳の中はまさに「電気の嵐」が吹き荒れているとも言える。我々の思考、行動はすべてこの電気の嵐から生じている。Tom Stafford著「MIND HACKS」
自分では一点を見ていると思っていても、実際には、目の前の景色を一部分ずつ切り取っていて見ていて、そのときに得た情報を基に1枚の絵を合成しているのである。Tom Stafford著「MIND HACKS」
物体や場所について想像する際には、同時にそれが存在するべき空間を脳内に作り出すことになる。Tom Stafford著「MIND HACKS」
Up&Up

2016年に発表されたColdplayのミュージッククリップ。一見、レトロな映像素材集のような雰囲気なのですが、よく見ると驚くべき組み合わせてイメージが合成されています。

地下鉄とウミガメ、ポップコーンと火口、魚群と戦地の子供達。次々と目の前に現れる、同化と対比のイメージ。上質なレトリックやメタファーのお手本のような、素晴らしいビジュアル。必見の映像です。

この映像を初めて見たとき、あまりの衝撃に言葉を失いました。映像の強さ、映像だからこそ表現しうることがあるというのを、まざまざと見せつけられたような気がしたのです。

11年ぶりの旅

2019年10月22日。macOS Catalinaに対応した「二十世紀ボヤージ 3.0.0」を公開しました。なんと自分でも驚きの11年ぶりアップデートとなりました。

この11年の間に、アプリバージョンやAppleTVバージョンをリリースはしてはいたのですが、macOS用のスクリーンセーバとしては本当に久しぶりの開発となりました。これだけ月日が経つと、生活も変化していくので、こうした自主制作に費やせる時間も限られてくるものです。

現に今回バージョンも、なんとか毎日15分ぐらいを捻出して地道に開発を進めました。でも、こうして飽きずに開発を続けられるのは、やはりテーマに興味があるからで、自分自身が純粋に面白いし、見てみたいと思っているからなんだとも思います。まあ、いつまでも同じことをやっているのは成長がないとも言えますが..。

最新バージョンはThree.jsとSwiftという開発環境。おそらく当分通用するプラットフォームになると思います。二十世紀というテーマに出会えたことに感謝しつつ、これからももうちょっと旅を続けていきたいと思います。

 

二十世紀に旅立つきっかけ

二十世紀ボヤージという作品を作り始めたのは、今から17年前、2002年も終わろうとしていた頃だったと思います。Mac OS X 10.2が発表され、OSでのテキスト描画がとても美しいことに感動して、これなら言葉を主役とした映像作品が作れるのではないか?という妄想のもと、勢いに任せてOSXプログラミングに挑戦を始めたのでした。

もちろんそれは簡単なことではありませんでした。情報も少なかったですし、そもそもプログラミングの能力もほとんどありませんでしたので、開発は難航しました。おぼろげに思い出されるのは、出張の際に新幹線の中でObjetive-Cという難解なプログラミング言語と格闘していたこと。時速200キロで進む移動の最中に、過去への旅を模索していたのも変な感じです。

もう一つのきっかけは、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件です。あの事件の全容や真相は知る由もないのですが、当時、漠然と持っていた欧米への憧れや、無意識に構築されていた西洋文化中心の世界像が、あの崩れるビルの映像とともに、心の中で瓦解していったこと思い出します。

そのショックや心の動揺を抑えようと、私は歴史を調べ始めました。そして歴史の断片を収集する日々が続いていたのです。そして教科書に載っている年表とは異なる、政治や文化が入り混じる、自分なりの年表が作られていきました。それは、私にとって全く新しい、もう一つの世界像の誕生でした。

夏の親子の自由研究

子供達の夏休みにあわせて、子供達とプログラミングでゲームを作ってみることにしました。ツールではなくゲーム開発にしたのは、日々楽しんでいる身近な娯楽を「自分たちも作ることができる」ということを体験してもらいたかったからです。と言っても彼らの担当はコーディングではなくディレクション。世界観の設定やキャラクターデザイン、パラメーター調整などを担当してもらいました。それを私がUnityで開発するわけです。

息子は随分前から、オリジナルのキャラクターを日々描きためていたのですが、そのキャラクターたちがグループを組んで、生き生きと対戦できるゲームを目指して開発は進みました。開発で気をつけたのは、最小限の作業量で実装できることと、単純なルールなのに複雑な戦略が可能になること。そしてそれを子供達がキャラクター達のパラメーター調整を通じて関与できるようにすることでした。

 

 

最初は単純すぎて、敵と味方が単に攻撃を繰り返すだけでした。まるでグーとパーだけのジャンケンのようなプロトタイプに、子供達も「こんなものか..」と感じているようでしたが、彼ら自身のアイデアで「回復する」「眠る」「混乱する」などの状況の変化を加えることで、戦略性が少しずつ高まっていきました。そして単に攻撃力が強いだけでは勝つことができないバランスが生まれ、キャラクターそれぞれの個性や存在感が構築されていったのでした。

 

 

夏休みの終わりともに、開発も完了となりました。考えたキャラクターが操作できたり、自律的に行動している様子をみて子供達は面白がっているようです。誰かが作っているものを、自分も作ることができる、ということが少しでも体感できていたらな良いな思います。そして、こういう親子での開発は、子供達がまだ小・中学生である今しかないんだろうなぁと考えると、夏の終わりが寂しくもありますね..。

というわけで、ボス戦を加えたり、新たな状況変化を加えたりなど、たまーにアップデートが不定期に続いています。以上、2017年の夏休み親子の自由研究のメモでした。

健全の美とは

どんな作品であれ、自分以外の眼に触れることが前提であれば、どうしても作る際に肩に力が入ってしまいます。恥ずかしくない表現、要望に応えられている表現、場にふさわしい表現。そうしたものを目指して、自分の力を尽くすわけです。なんでこんな大変なことを始めてしまったんだろうと考えながら、過去の自分に挑戦を挑んで、品質と精度にこだわります。

先日、初めて肩の力を抜いて展示をすることができました。もちろん決して手を抜いたわけではありません。やりすぎないように、こだわりすぎないように、作品の面白さの「芯」の部分だけを大切にしたのです。それは作家の「作品」ということではなく、暮らしの中の一つの「提案」のような感覚でした。

奉仕の心は器に健全の美を添える。健全でなくば器は器たり得ないであろう。工藝の美は健康の美である。柳宗悦 民藝四十年

最近読んだ一冊の中にこんな言葉がありました。健全の美。なんだかとても気持ちの良い言葉です。環境に対して無理のないもの、自然なもの。そうした一種の透明度を持った美のあり方。提供する側もされる側も、肩の力を抜いて「楽しいね」と思える美しい空間のあり方。そうしたデザインを今後も探ってみたいと思います。

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