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未来派図画工作のすすめ/自由ノート

見届ける - 小川洋子さんとの対話から

QONVERSATIONSというサイトにて、小説家の小川洋子さんにインタビューする機会をいただきました。小川さんの本は何冊か読ませていただいていて、その独特の世界観に魅了されていましたから、インタービューできることが決まってから、とても心が躍りました。それと同時に、小説家とはどんな人なんだろう、何を聞けば良いのだろう。作品の感想などを、著者に直接あれこれ言ってしまって良いのだろうか、という気持ちもわいたのでした。

一時間ほどのインタビューの時間は、あっという間に終わりました。小川さんの思考はとても映像的で、想像の中に、小説の世界が「存在」しているかのようでした。その存在する世界を、淡々と記述していく事で物語が生まれていくのです。物語とは作者が強引に作り出すものではなく、想像の世界に寄りそって見届ける事。なんて独特の創造なのだと、ただただ驚くばかりでした。ご自身も自分の執筆のスタイルに気づかれたのは最近だとおっしゃっていたのが、とても印象的でした。

芸術と科学の親和性を感じながら、謙虚に好奇心を具体化していく事が出来たなら、どんなに幸福な事だろう。
インタビューを終えた私は、新幹線の車窓を流れる街並の景色を見ながら、何度も何度も、見届けるという事、見届けられるという事、と想いを巡らせるのでした。

一生かけて見届けられるもの。自分の一生を見届けてくれる人。もし、誰かが自分の一生を見ていてくれて「よくやりましたね」と言ってくれるのなら、人生の意味も変わってくるはずです。おそらく神話や宗教といった、個人を超えた物語が生まれたのは、こうした思いの重なりからなのではないかと思います。

でも、そうした「見届け」が出来るのは究極的には自分自身だけ、なのかもしれません。なぜなら自分の人生に絶えず寄り添えるのは自分自身に他ならないからです。

おどるえ

必要なものは、いくつかの仕掛けとみんなの想像力。
心の中にも描けたら、ほら、心が動き出す。心がおどり出す。

東北芸術工科大学が主催する「福しま図案室」という取り組みに参加させていただくことになりました。この取り組みは、福島から山形に自主避難されているご家族のための、手と指で表現する〈暮らし+デザイン〉のレッスン。これまでも素敵なレッスンが開催されてきています。

子供達とのレッスンは初体験。私はいろいろと頭を悩ませて「おどるえ」という、インタラクティブな映像作品を用いたレッスンを行うことにしました。「おどる」といっても参加者の方々が踊るのではありません。踊るのは「描いた絵」。そして本当に踊ってほしいのは「わくわくする心」です。

これまで携わったインスタレーション作品では、多くの子供達が楽しんでいる姿を見ることが出来ました。今回のレッスンでは、その楽しさの要素をたくさん抽出して、楽しさから生まれる想像、創造力を感じていただけたらと考えています。

なお、この作品はWOWと未来派図画工作の共同制作という形で参加させていただきます。

 

http://blog.tuad.ac.jp/trso/blog/event/549.html
The darkest nights produce the brightest stars…
極小の先の無限

HITSPAPERが主催する「NIT」というイベントにて、ひも理論を研究されている橋本幸士さん、サイエンスコミュニケーターの林田美里さんとお話しする機会に恵まれました。いつもはお会いする機会がない分野の方々との語らいは、とても新鮮で刺激的でした。そこで私は、恥ずかしながらも、ずっと気になっていたことを聞いてみることにしました。

「私が壁を触るとき、私を構成している素粒子と、壁を構成している素粒子は混ざりあったりするのですか?」

地球をすり抜けていくような、小さな小さな物質ですから、モノとモノが接触するときに、まるで砂のように混ざっているのではないかと妄想していたのです。その妄想は以前「光線のワルツ」という作品を作る上での原動力にもなりました。

「混ざりあっていると思います」

橋本さんはさらりと言いました。混ざりあっている!それは私にとって大きな衝撃でした。モノとモノは境界で混ざりあっている可能性がある。ということは、境界は動的で変化に富んだダイナミックな波打ち際のようなもの?人と人が触れ合っているときも、境界では素粒子レベルで混ざりあっている?
世界の見え方が変わるかのように、妄想はどんどん広がります。

科学者の方々が持っているまなざしは、デザインやアートと共通する部分があるはずです。しかし見えている光景はおそらく我々よりも、もっともっと大きい。素粒子という現在最も小さいとされている物質の先に、宇宙全体を記述する理論の気配を感じ取っている。そしてその理論は、研究している科学者の思考や、それを読み解く構造までも包含した、あらゆるものを記述できるかも知れない可能性がある。

もし仮に人類がそうした究極的な理論に到達したとしたら何が起きるのか。全く想像がつきません。意識が決定的に変わって、より生物として進化した存在へと向かっていくのか、逆に生きる意味を見いだせなくなってしまったりするだろうか。

どうか、日々の小さな幸福は、変わらずに僕らの周りにいてほしい。と思ってしまうのは、自分の視界が狭いからだろうか。それとも極小のものから無限大のものが見えてくるように、小さな幸福の先に大きな調和の気配を微かに感じているからなのだろうか。

 

Photo by Aron Visuals on Unsplash

無用の用

縁があって金沢を尋ねるのはこれで三度目になります。今回はeAT金沢というイベントに参加して、恐れ多くもセミナーのスピーカーを担当します。 また金沢21世紀美術館ではWOWのインスタレーション作品「工場と遊園地」も展示されますので、これを機会にぜひ金沢へお越しいただければと思います。

セミナーのタイトルは「無用の用。独創性で世界と向き合う」としました。誰の中にもある小さな好奇心を、しっかりと育てて、周りの人と共有できれば、自ずと独創性が生まれてくる。そしてそれは一握りの天才だけが生み出すものではなく、誰にでも生み出すことが出来る。私はそう信じてきました。

世の中には「一体何の役に立つんだろう?」「それにどんな意味があるのか?」というものが数多く存在します。しかし、そうした全てのものが、何らしかの形でつながり合っていて、相互に影響し、複雑に組み合わさって、世界が構築されている。一つの例ですが、アマゾンの森林は、大西洋を挟んで遥か遠く、サハラ砂漠のミネラル豊富な砂が風に乗って舞い落ちるから、あれほどまでに豊かなんだそうです。

効率優先主義からすれば、創造性には非効率で役に立たない側面があります。でも、創造的であることは時に予想もしなかったような成果をもたらし、作り手を世界へと羽ばたかせるのです。その飛躍は、いつも個人の思いからはじまり、揺るぎない独創性につながっていく。これは、この15年で私が感じたことです。

イタリアのデザイナー、ブルーノ・ムナーリは「ファンタジア」という言葉で、アップルの創業者スティーブ・ジョブズ「リベラル・アーツ」といった言葉で、そうした芸術的な創造性を指針に掲げました。このような創造性や個人の知的好奇心が、まるでサハラ砂漠の砂のように、社会に降り注ぎ、豊かな成功をつくりだすのだと思います。

今回のセミナーでは、仕事の中で創造性を活用するために実践していることをお話しできればと考えています。それは個人と会社の距離感を意識しながら、科学と芸術とデザイン、そしてビジネスを柔らかく関係させながら循環させていく事に他なりません。

Photo by Hisashi Oshite on Unsplash

雨音を聞いて明日を思う
「キャベツが青虫に食べられる事、トウモロコシがカラスに食べられる事、ニワトリがキツネに襲われる事、昔はそういった事にいちいち目くじらを立てていたけれど、最近はそう思わなくなってきた。彼らには彼らの役目があって、自然との共生の中で全部が必要な事だから」

宮城県色麻町で無農薬農業を実践している、和田さんという方の農場を見学する機会にめぐまれた。そこは風通しの良い広々とした丘に面した畑だった。大きなクモやオニヤンマがいきいきと過ごす草原で、子供達は夢中になってバッタを追いかけて走る、走る。

自然に向き合いながら「作る」「食べる」事を真剣に考える生活。そこには労働への悲壮感ではなく、季節の移り変わりを芸術的な視点で楽しむという、文化的な豊かさがあった。自分が実現したい人生のために、芸術があって、文化があって、農業がある。難しい顔で「社会とは・・」と机上の議論をいくら重ねても、近づけないなと思った。

人は、創意工夫によって便利さを生み出し、効率を上げ、近道を探し続けてきた。しかしそれは実は、壮大な遠回りなのかもしれない。本当の創意工夫とは、時間短縮だけを目指すものではなく、時間を感じ、楽しむものなのではないか。

深夜、こんな文章を書いていたら雨が降り出してきた。 和田さんは「雨に降ってほしいなと思う、そしたらニンジンの種が蒔けるから」といっていた。たぶん彼女は雨音を聞いて、明日の朝の種まきに心躍らせているのだろう。

雨音を聞いて、明日の事をそんな風に考えるのは初めてかもしれないな。

 

見えてくる
考えるのではなく、見えてくる 「物語の役割」小川洋子著

普段は文章を書かない私にとって、小説のような長い文章がどんな風に構築されていくのか、とても興味を持っていました。言葉という記号の固まりが、流れるような時間の変化や、空間の飛躍、感情の隆起を生み出す。本当に不思議なことです。

偶然手にした一冊の本、小川洋子さんの「物語の役割」には、そんな私の好奇心を満たしてくれる数々のヒントがちりばめられていました。その中で私をとても驚かせたのは、「考えて書くのではなく、見えてくる」という一文でした。

これは私がデザインをしている時に感じていることとそっくりだったからです。デザインは考えただけでは実現できません。調べに調べて、昼も夜もそのことを頭に置きっぱなしにしながら、メモやラフスケッチを書く。すると、ふとある時、すらすらと何かに導かれるように答えが浮かんできます。(もちろん、いつもそんなうまく行くとは限らず、七転八倒しながら絞り出すようにアイデアを具体化してくことも度々…)

しかも不思議なことに、すらすらと答えが浮かんでくるときは、悩まずに最後まで一気にアイデアが貫通していきます。あたかもその道筋は、もうすでに決まっていて、そこをなぞっていくかのような過程

これから私は、考えるのではなく、見えてくる。という気持ちでデザインや表現活動に望んでみようかなと思っています。そして「見えてくる」ために、経験と体験、観察と想像の日々を送るのです。(と自分に宣言!)

Photo by Jonathan Knepper on Unsplash

 

えたいのしれないもの

「子供達といつも本気で遊んでいる、それが本当に楽しくてしょうがない」

知人がしみじみした顔でこんなことを言った。それを聞いていた僕と友人は、ちょっと後ろめたさを感じて苦笑いをする。子供達と遊ぶのは楽しいのだけれど、遊んでいる時も仕事が頭から離れないのだ。だから本気で遊べる事もあるけれど、考え事をしながら子供につきあう。という状況も多々あるのである。

さて、そんな事を聞いてしまったものだから、その週の週末は仕事の事を忘れて、子供達と本気で遊んでみた。アスレチックをしたり、茂みのなかを歩いたり、自転車の練習などもした。やはり子供達の「初めて」に立ち会える事は本当に素敵な事だなと思う。それが自分にとって「初めて」だったら尚のこと素晴らしい。声を潜めて鳥を探しているとき、いつもはうるさい息子も、自然に息をひそめる。大きな世界のなかにいる事を無意識に感じるかのように。

ぼくらは古びた橋を渡って、ため池の向こう側へ渡った。そこにはうっそうと草が生えていて、大きめのカニが石と草の根の隙間に隠れていた。
次の瞬間、近くの用水路が大きく波を打つ。波の雰囲気からして、結構大きめの魚が泳いで逃げ出したようだ。水が濁っていて見えなかったが、たぶんナマズかなにかだろう。夕暮れの時の静かな田んぼに囲まれて、子供達は目を輝かせながらびくびくしていた。私も、子供達の気持ちに同調するように、ちょっとだけドキドキしてきたのであった。

「あれ、なにかな?」帰り際、子供達はあの用水路の主について、いろいろな想像力を働かせていた。私も調子に乗ってその議論に加わり、しまいにはカッパか、妖怪じゃないのかという話にまで展開した。もしあのとき、魚が姿を現していたら僕らはその話題で盛り上がる事はなかっただろう。
なにか得体の知れないものが、想像力をぐんぐん拡大させる。そこには検索して出てくる答えはない。分類されたものを偉そうに上から眺めるのではなく、分類される前の世界にその一部として入っていく感覚。もしかしたら「遊ぶ」という事は本来そういう事なのかもしれない。

AXIS Magazine

デザイン誌「AXIS」2012年4月号にWOWを取り上げていただきました。私もその中で取材に応えさせてもらっています。学生の頃から読んでいた雑誌でしたので、こうして掲載されてみると、本当に不思議な気持ちになります。

思い起こせばデザインというものに携わるようになってからというもの、暗中模索しているうちに約20年も経過してしまいました。なんとかここまでやれてきた事への小さな自負と、まだまだ何も達成できていない大きな自戒の念がわき上がってきます。

震災時に痛感したのは、デザインというものが、実は巨大なインフラの上に成り立っていて、その基盤が崩れたときに深刻な機能不全となるという事でした。もちろんそうした基盤を作るためにデザインが用いられてきましたし、その復旧でも多いに活用されてきたと思います。しかし、様々な想いが交差する中で、私の中で「デザイン」という概念が大きく変化していることは確かです。

その変化を確認するために、そして確実なものにするために、まだまだ学ばなければならない事、経験しなければならない事が山のようにあります。視線の先に、常に根本的な価値観を置けるように、「デザインする」というスタート地点から発想するのではなく、「生きる」という起点を私の中で構築していくこと。そんな事が出来ないだろうかと、日々考えています。

https://www.axisinc.co.jp/media/magazinedetail/156/
最後と最後の間に

「旬を感じることが最高の贅沢」という一文を読んでから、旬とは何だろう、旬を感じるという事はどういう事なんだろう。とずっと考えている。今しか味わえないものを楽しむ事であろう事は分かる。でも、日常の中でそれを感じる事は出来るだろうか。ましてや体調を崩したり、悩みを抱えている時に、そんな余裕などあるだろうか。

先日、禅僧であり日本庭園のデザインをされている枡野俊明さんと対談する機会に恵まれた。文頭の言葉は枡野さんの言葉である。私は事前の打ち合わせで、旬について尋ねた。彼はテーブルの上にあったペットボトルを持って「全ての瞬間がかけがえの無い事と知る事です。これを単に水の入ったペットボトルと思うか、そうでないかは自分次第ですよね」と笑った。

ペットボトルをデザインしたのは誰だろう。どうしてこんな形をしているんだろう。水はどこから来たのか。どんな味がするんだろう。そういった事に思いを馳せれば、テーブルの上のペットボトルは、映画のエンディングのようなものになる。いや、飲んだ水は体の中でどう吸収されるのか。ペットボトルはリサイクルされて、どんなものに転化するのか。そこまで想像力を働かせれば、テーブルの上は、長大な物語の一章になるのだ。

私にはまだそんな心の大きさも、ゆとりも無いようで、先日、歯の痛みに耐えている時は「早くこの痛みよ消えてくれ!」とただただ願う事しか出来なかった。楽しむなんて無理。でも、いまだにしつこく旬、旬、と考えていて、これが旬なのかな?とふと気付くような瞬間が、少しずつ増えてきた。

ここにはもう来れないかもしれないな。この人にはもう会えないかもしれないな。そう考えると胸がほんのすこしチクリとして、がらっと景色が一変する事がある。すべてが最後の出来事。日々、最後と最後がつながっている。もしかするとそうした最後と最後の隙間に旬があるのかもしれないな。

Photo by freestocks on Unsplash

お菓子と発明の夜更かし

おそらく人生で初めてのインフルエンザに感染する。最初の夜は高熱にうなされて夜も眠れず。割れんばかりの頭痛を耐え忍ぶ。ただ耐えるばかりでは悔しいので、最近読んだ脳の本を思い出し、脳で繰り広げられているだろうはげしい営みを思い浮かべながら痛みに耐えるのであった。

そのためか、その夜見た夢は、これまでにない抽象的な夢だった。真っ白な空間に大きな黒い液体が浮かんでいて、形を自在に変えながらいろいろな方向へ流れては戻ってくる。そんな現象のような夢。

二日目の夜。熱も下がってきた私は寝室で眠れず天井を見つめていた。一日中寝るなんてめったにないことだから、身体が拒否反応をしたのかもしれない。ふと脇で寝ているはずの娘の方に目をやると、意外にも暗闇の中で娘と目が合った。どうやら彼女も眠れないようだ。

実はこのインフルエンザは、そもそも彼女の学校で流行ったもので、彼女も彼女の弟も、私が倒れる数日前に寝込んでいた。私はそのウィルスを防ぎきれなかったという訳である。

 

眠れないね、と、二人で隣の部屋に行き、暖房をつけ、即席のコーンスープと食パンをかじった。それとついでに、彼女が苦手だった粉薬の飲み方を練習した。それで、眠くなるにはどうしたら良いかと考えて、本を数冊読もうという事になる。私は近くにあった「発明」という本を選び、彼女は「パリのお菓子」という本を手にした。

私はせっかくなので、火とか鉄とか、車輪とかの発明がいかに人間に大きな影響を与えたかを、彼女に伝えようとしたのだが、結局はどのお菓子が美味しそうかという話に終始した。本の中には夢のようなスイーツの世界が展開していた。色とりどりのマカロンや、ケーキ、エッフェル塔のチョコレート。昨年家族で行ったパリが鮮やかによみがえる。

まあ、自然に眠くなる本としてはパリのお菓子の方が正解だった。夢に車輪が出てきてもそれほど楽しくはないだろうし(私は楽しいが)、ましてや黒い液体なんか出てきたら悪夢だな。と思いながら数冊の本を読んで、二人で寝室に戻る。娘は何事もなかったように眠りについた。さて、かくゆう私はまだ眠れず、こうしてこの文章を書いている訳なのです。

追記。この文章を書き終えた頃、弟が起きてきた…。こうして夜はもう少し続くのでした。

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