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未来派図画工作のすすめ/自由ノート

会話から生まれるもの
あふれだす言葉が
止まらない雨のように紙コップに降り注ぎ
すべるように通りすぎて
消えてゆく 宇宙をこえて
「Across The Universe」Beatles

会話では言葉という言語情報に加えて、表情やジェスチャー、その場の雰囲気などの非言語情報がやり取りされる。ちょっとした目の動き、ため息、笑い、話し方・・。

この非言語情報はなかなかデータに出来ない。出来たとしても複雑で膨大なデータ量になるはず。 その言語+非言語情報を脳がフルパワーで瞬時に解析して、反射的に次の言葉が出てくる。

考えてから話すということはない。考えながら話す。話しながら考える。そして次々と話が展開していく。

先日、とても楽しい会話(のちにみんなの会と命名されました)に参加できた。仕事でも日常生活でもなく、好奇心をテーマに会話をするという機会は以外と少ない。それは「どんな仕事をしている」とか「どんな物を買った」とか、そういった日々の会話ではなくて、「こんなに世界は面白い」というものだった。

科学・数学・宗教・動物・認識・文学・デザイン・・ジャンルの異なる5人の会話は、色々な方向に広がって流れていく。

それにしても、インターネットや携帯電話といったツールがこれだけ普及したのに、「会って話す」のが最も効果的なコミュニケーションなのは皮肉な事。もしかすると人間は、それを再確認するために色々なツールを作り出しているのかもしれませんね。

小さなもの
小さなものに敬意を払い、目線を合わせると、 見えなかったものが見えてくる。 自分がどんなに偏ったところから世界を眺めていたか。 小さなもの、動かないものに、気づかず過ごしてきたか。 自分一人の力で、何とかなると思ってきたか。「Lingkaran」vol.19より

こどもと庭を歩く。 彼女はいたるところでしゃがみ込み、色々なものを見つける。 そうすると、もうすっかりと忘れてしまっていた、色々な事を思い出す。

バッタの跳躍力、カマキリの怖さ、シャボン玉の美しさ。カエルの色が変わる事。夕方鳥たちが巣に帰っていく事。その鳥たちに、私と彼女はいっしょにサヨナラと手をふる。

いつからだろうか、他人の考えた事によりかかり始めたのは。感じた事を、知識で矯正し始めたのは。都市の価値観をそのまま受け入れて、カタログから自分の未来を選べば、他人と自分を比較することでしか、自分のあり方を信じられなくなる。

コンピューターグラフィックスもインタラクティブな作品も、技術が高度になっていくと、自然を模倣していく側面があると思う。技術によって自然の営みを、人間の解釈によって再現する。

でもその表現が自然に近づけば近づくほど、逆に違和感を感じることもある。そういった表現の意味が喪失する感じというか。 と、また難しく考え始める。 そうじゃなくて、もっと素直に。 目を地面に近づけなくては。

Photo by Oleksandr Kurchev on Unsplash

思うように、やりたいようにさせて。決して長くはない、共に過ごす日々を笑いで満たしていきながら。そうやって、親と子の物語は果てしなく続く。大昔から今、そして、これからの千年も、万年も。「Lingkaran」vol.19より
世界は色と動きにあふれている
気をつけて見ると、世界は色と動きにあふれている。感じた事を映像にしているだけ。何も「表現」はしていない。高木正勝

今日はとても気持ちの良い日だった。午前中は会議、午後から家族と外へ出た。空には無数の雲が様々な表情を見せている。川沿いの土手に立つと、水面が太陽の光を受けて輝いている。暖かい日差しと、ちょっとだけ秋の匂いのする風が、草木を揺らしている。

この圧倒的な光と空間の作り出す印象に勝るものを作ることは、たぶん人間には無理なんだろうと思う。そう思うと、もはや人間はその空間を構成する一つの要素に過ぎない。

そして情報過多な毎日が、いかに記憶に残っていないかを実感する。おとといのニュースはもう覚えていない。でも、今日の印象を忘れることはないだろう。
もしかすると「表現」というのは、何かを表す行為なのではなく、 情報を記憶するための手段なのかもしれない。人間の思い描くちっぽけなことを、なんとか人に覚えてもらう。儚く溶けていく記憶を、何とか自分の中で忘れないようにするために。

Photo by Diego PH on Unsplash

アイデア
アイデアの良い人は世の中にたくさんいるが、良いと思ったアイデアを実行する勇気のある人は少ない。我々は、それをがむしゃらにやるだけである。盛田 昭夫(ソニー創業者)

大抵の場合、自分には良いアイデアがあると思い込みながら、誰かが考えたアイデアを、ちょっと我慢しながら具体化していく。でもせっかくだからもっと楽しみたい。と思う。 ところが、そのためには自分が良いと思ったアイデアを実行しなければならない。この実行が出来るかどうかが、本当に難しい。

いろいろなしがらみや、技術的なハードルや、時間的な制限がその実行を妨げる。そして何よりも他人に評価されることが怖い。実際には勇気さえあれば実行できるのに、出来ないことが多い。

私も仕事や作品を作れば作るほど、次に何を作るかを考えすぎてしまう。考えすぎると、作りたいという初期衝動よりも、作った後の評価を先に気にしてしまう。だから、作らなければならないという衝動が、逆に重荷になる。

というわけで、考えてから作るのではなく、考えながら作るという気持ちで、また作ってみました。ちょっと久しぶり。作品と呼べるようなものじゃないけど、やはり楽しい。 Quartz Composer Samplesに4作品追加。

Photo by Frederick Medina on Unsplash

2011年

パーソナルコンピューターの歴史を変えたスティーブ・ジョブズとビル・ゲイツは1955年生まれ、そしてインターネットを変えようとしているGoogleの創立者二人は1973年に生まれた。その差18年。

この周期をたどると、次は1991年生まれた誰かが世界を変えるのか?ということが読んだ本に書いてあった。その1991年生まれの誰かがちょうど二十歳になるとき、世界は2011年を迎える。

今から5年後。2011年。日本ではアナログ地上波放送が終わり、総務省の計画通り進めば、全世帯がブロードバンドでインターネットにつながっている。もはやテレビは受信機という使命を終え、ネットワークの中継点になるのかもしれない。たぶん情報の流れはこの時期を境に大きく変わる。

この年には新東京タワーが完成する。そして世界貿易センタービル跡地にできる「自由の塔」もこの年に完成する予定だ。NASAの水星探査機「メッセンジャー」は、はるか彼方の水星に到着する。

僕らはこの年に流れるであろうニュースをどんなメディアから知るのだろう?ラジオ、新聞、テレビ、インターネット、携帯・・・。それはもう予測がつかないほど進化して、多様化しているのかもしれない。何だか大変そうだ。

でもこのニュースを誰と一緒に聞くかは、何となく想像できる。それで、「昔の東京タワーのほうがいいよね」なんて口をそろえて言うにきまっている。そう思うと、何だかちょっとした楽しみになる。 (このサイトはまだあるかなぁ?)

 

Photo by Jaison Lin on Unsplash

知りたいことを作る

せんだいメディアテークでモーションテクスチャーの展示が始まりました。初日にはオープニングセレモニーがあって、多くの方にも来ていただきました。作品の上を歩く人、走る人、そして寝る人。ウルグアイからたまたま来ていたメンバーは持っていたボールでサッカーを始めてしまいました。

映像と人の関係は、私が考えていたよりももっと色々な可能性があるようです。 展示されている作品を見て、まだまだ挑戦すべき点は多々あると再確認しましたが、このプロジェクトは私にとっては新しい最初の一歩には違いありません。これまで培ってきた表現技術を使って、思想を具体化していく。

そして「言いたいことを作る」から「知りたいことを作る」への転換の始まり。 アートとビジネスの間で一人でも多くの人と「知りたいこと」を共有したい。そしてそれを特別なものではなく、とても身近なものとして表現したい。

映像というものが記憶でしか残せないとしたら、見た映像よりも、作った映像のほうが記憶に残るはず。だから、作者と鑑賞者とコンピューターが共同制作者になるような作品をつくっていけたらと思う。

これまでの、これからの10年

かつての都市は城壁に囲まれ、内部は建物が密集する要塞のようなものであった。それは敵からの攻撃を外壁でとどめ、中心にある大事なものを守る役目も果たしていた。

しかし飛行機の出現によって、状況が全く変わってしまった。天井のない要塞は、その外壁を無視した空からの攻撃に全く対抗できないばかりか、逆に中心部にとって危険な状況を作り出してしまったのだ。

インターネットを中心とした社会の仕組みの変化は、もしかすると飛行機の出現のようなものか。だとすると、何かを一ヶ所に集中させすぎる事には疑問を持ったほうがいい。もはや、これまでの考え方や枠組みは、城壁のように我々自身を苦しめるものとなるからだ。

誰が水を発見したのか分からないが、魚ではないだろう。マーシャル・マクルーハン

水の中からでは水の存在を知ることは難しい。長いものにまかれていては、その長いものを取り巻く環境に関心が無くなる。台風の目と同じで、その中心部では本当の状況を把握できないのだ。だとすると、状況を把握するためには、まずはその外に出て、もう一度、自分たちが置かれた状況を客観的に見つめる必要がある。

ここ10年やってきたことが、これから10年通用するのか。そしてそれは何のためなのか。考え直す時期がきている。仕組みが変わっても、原理は変わらないという事を信じて。

Photo by Amir Saboury on Unsplash

Motion Texture

私の所属するWOWにて「Motion Texture」という新しいプロジェクトを始めました。これは「存在する映像」というコンセプトを中心に、メディアの枠組みにとらわれない作品を展開していくプロジェクト。

インスタレーションでは環境と映像の相互関係をテーマにしたメディアアートを展示。DVDでは制作過程にアルゴリズムや偶然性を取り入れ、作り手と作品、そして作品と鑑賞者の間に新たな関係性を作り出します。

私はwowlabとしてインスタレーションをデザインしたり、未来派図画工作としてDVDの制作に参加しています。 まず最初にせんだいメディアテークにてインスタレーション作品を展示します。

幅5mの巨大なスクリーンを天井から床に3画面投影。QuartzComposerのリアルタイムエフェクトを最大限に利用して、その中で遊んでしまおうという作品になる予定です。

モーショングラフィックスが、見る人に反応して有機的に映像がゆがみ出し、見る人の動きを誘発。その映像と人との無限のフィードバックの中で、両者が一体となった時、環境を演出しているはずのモーショングラフィックスは、いつしか存在するものと認識され、環境そのものになっていくのではないか、と考えています。

展示期間は2006年6月5日〜6月14日まで。 詳しくはこちらでどうぞ。

イメージの庭 vol.3
Saccadic Suppression
2006年6月5日(月)~2006年6月14日(水)
せんだいメディアテーク
https://www.smt.jp/imagegarden/saccadic/

記憶よ、どこへ行くのか?

最近、作品の素材撮影のためにデジカメを持ち歩いている。そうすると、今まで無視していたものが、別の価値を持って目に飛び込んでくる。気がついたらシャッターを押す。目が常に被写体を探している状態。なんだか学生のころに戻ったようで新鮮。

そんなことを何日か続けたら、ちょっとした疑問が湧く。 記憶はどこへ行くのだろう? この視界に入ってくる全ての情報を、人間は覚えているのだろうか?

もちろん何かイベントや心に残るような出来事があれば、そのシーンは心に焼き付く。でも、そうじゃないシーンは全部忘れてしまうのだろうか。それとも脳のどこかに蓄積されていて、いつの日か取り出せるのだろうか。

よく考えてみると、本当に感動した瞬間に、写真を撮ることを忘れている。

ようするに、本当に心が揺らいだ瞬間の周辺を、写真として残している。いまだに心に焼き付いている、あの表情、あの夕暮れ、あの出会い。

写真はとっていないのに、温度や匂いまで心から離れない。 たぶん僕らの心にもシャッターがある。それは流れて忘れていく記憶にくさびを打つ。そのくさびの打ち方が、その人の個性なのかもしれない。

そして表現者は作品をとおして、見るものの心にくさびを打つ。 一日に一度は心のシャッターを押したいなと思うし、自分も作品を通して、一人でも多くの人の心にくさびを打ちたいな。と思うのでした。

Photo by Alexander Kagan on Unsplash

美しさの隠れ家
数学者は良い仕事を「美しい」と形容する。科学者、技術者、音楽家、建築家、デザイナー、作家、画家、そういった人々も、過去や現在に「美しい」という形容詞を使ってきた。皆が同じ単語を使うのは単なる偶然なんだろうか。 「ハッカーと画家」Paul Graham

最近、1歳半になる娘が「ちれー」(たぶんキレイ)とよく言うようになった。彼女は見るもの見るものにキレイというものだから、私もついキレイということを意識してモノを見るようになってしまった。

先日も、水たまりが光を反射して、壁に不思議な光の揺らめきを作り出していたのに感動して、思わずカメラで長時間撮影してしまったほど。

人それぞれ美しさの定義は違う。でもみんな美しさを知っている。そしてこの美しさは表面的なものばかりでなく、思想的なもの、概念的なものにも適用されるのが面白い。

たとえば、美しい景色や美しい花というのは、いわゆる表面的な美。でも美しい解決方法、美しい数式、美しい生き方というふうに、様々なレベルで、この美しいという言葉は使われる。

だから逆説的だけれども、「キレイに汚れる」ということもありうるわけです。この場合、結果的に表面は汚いけれど、その汚れる過程や構造に、人々は美しさを見いだすという事だろうか。

汚い色はない。全ての色は美しい。汚く見えるとしたら、配色が間違っている。そんなことを知人から聞かされてはっとした覚えがある。そう考えると美しさとは、表面や中身というよりも、組み合わせや順番、すなわち構造に隠されているのかもしれない。

僕らは美しいと感じるとき、その対象の構造を、無意識に見抜いているのだ。

Photo by Nong Vang on Unsplash

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