Random Pickup

未来派図画工作のすすめ/自由ノート

何もないという存在

今年の冬はとても雪が降った。仙台も例年以上に雪が多かったような気がする。雪国にとって雪は歓迎されるものではない。渋滞はするし雪かきは大変だし、そして何よりも寒い。でも私は雪が好きなのだ。 雪のふる夜道。街の光で舞い降りる雪が浮かび上がるとき、何もないと思っていた空間、気にもとめなかった地上と空の間が、立体で密度のある気体の固まりであることに気づく。

そんなとき私は立ち止まって真上を眺める。雪はゆっくりと音もなく私に向かってふってくる。そのうち自分が空に向かって飛んでいるような気持ちになる。 何もないと思っていたものが、実はものすごく重要だったりする。たとえば空気がそうだ。数学はゼロの発見で飛躍的に進化した。無は無が存在するということで、無ではない。なんて考えかたもある。

気付いているようで気付いていないもの。当たり前の存在は実はかけがえのない存在。 ちょっと大げさだけど、私は雪に地上と空の間、すなわち「空間」の存在を教わったのかもしれない。

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百年の幸福

100年カレンダーの存在を知って、ずっと前から作ってみたかった。100年。人間にとってこの100年というのは世紀の区切りでもあるように、何か特別な意味を持つ期間ではないだろうか。それは人の一生の長さも関係しているはずだ。そしてなによりも100年後を考えるということは、自分たちが不在である時代を考えることであり、頭では理解していても、実際は遠く遠くぼやけた時代なのだ。

世の中には様々な状況、そして様々な立場の人がいる。横断歩道をわたる大勢の人たちは、それぞれ全く異なった人生を送り、皆がそれぞれ主人公の人生を歩んでいる。 しかし、一つだけ共通していることがある。 それは時間という大きな船に乗っているということだ。

人によって船のスピードの感じ方は様々かもしれない。しかし、その船は静かに一定のスピードで明日に向かって進んでいる。 そういえば「百年の孤独」という小説がある。 このカレンダーを見て、一つ一つのドットを孤独と感じるのか、幸福と感じるのか、それは見る人によって様々だろう。できれば僕は「百年の幸福」と感じながらこのカレンダーを眺め続けられればなと思う。さてあなたの心には何が現れるだろうか。

 

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われらの美をば創らねばならぬ
曾つてわれらの師父たちは 乏しいながら可成楽しく生きてゐた そこには芸術も宗教もあった いまわれらにはただ労働が 生存があるばかりである 宗教は疲れて近代科学に置換され 然も科学は冷く暗い 芸術はいまわれらを離れ 然もわびしく堕落した。農民芸術概論綱要 ー 宮沢賢治

常識は既に存在し、様々な学問は当たり前のように教科書に載っている。食べ物は誰かがどこかで作っているし、水も当たり前のように蛇口から出る。電車はよく分からないけれど毎日動いているし、調べようとしなくても世界中のニュースがポータルサイトに表示されている。数えきれない「当たり前」に囲まれて、私達は今、驚くほど受動的な生き方をしている。

生活の大半を受信に使う毎日。

学校の教育は受信機をつくりだすには素晴らしいシステムなのかもしれない。いや、社会が受信機をつくり出すように努力しているのかもしれない。とにかく、発信機は少数で、受信機は多数のほうが一部の人には何かと都合がいいのだ。今や芸術も限られた人の経済的表現手段にすぎない。

受信のしすぎは何かを忘れさせてしまうのだろうか。つくり出しているかのようで、結局はコピー&ペーストだったり、勘違いのまま批評していたりする。しかし、とにかく一方的な受信を疑ってかかる時期に来ている。作る人が増えれば、批評は激励に変わる。利用者が制作者と同一人物になる。発信と受信が混ざりあって、送受信は本当の意味での対話となるだろう。

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いまやわれらは新たに正しき道を行き われらの美をば創らねばならぬ 芸術をもてあの灰色の労働を燃せ ここにはわれら不断の潔く楽しい創造がある 都人よ 来ってわれらに交れ 世界よ 他意なきわれらを容れよ農民芸術概論綱要 ー 宮沢賢治
共に作る
建築には機能性、合理性、地域性、社会性、そして美学が必要です。しかし、建築を教える際には、美学と技術しか教えない。そこが一番の問題点です 安藤忠雄

これは建築に限ったことではなく、プロダクトデザイン、グラフィックデザイン、映像デザインといった、全てのデザインにも同様のことなのだろうと思います。しかし教育やコンテストなどの評価が、美学と技術を重要視することによって、デザインは見た目から語られることが多く、表面の奥にある合理性や、それをつつむ社会や地域性については、軽視されているのが現状ではないでしょうか。

もちろん人を魅了する表面と、その表面を作るための技術は大切なことには間違いありません。でもやはり本当に重要なのは、その奥に隠れた様々な問題の解決案のはずです。そしてそれをを設計することが、デザインのそれ自体なのだろうと思います。

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私と現場監督、大工さん、左官屋さん、お互いに機能が違うが皆、目線は一緒。私はかんなで削れないが、彼らは図面が引けない。どちらが上でも下でもない。お互いで作るという感性があってやってきたわけです。しかし、他の建築家にはこれがない。 安藤忠雄
偶然を意図して作る

私が始めて作ったコンピューターグラフィックスは、真っ黒な画面に次々とランダムに白い点が発生する星空のようなものでした。それはごくごく簡単なプログラムです。しかしそのときに始めて出会った乱数というものが、今でも私を魅了し続けています。(もう20年前にもなりますが・・・)

サイコロを投げれば、出てくる数は偶然に決まります。当たり前の事ですが、自然の中は様々な偶然で溢れています。いってみれば私達の生活も偶然が重なって作られたようなものです。しかし、偶然は人間にとって生活を脅かす不安定要素となります。ですから機械というものはその偶然をとりはらい、画一的で反復的な機能「安定」を得るために発明されました。

機械は、予定通りの一定の働きをするものといっていいでしょう。 しかし、コンピューターの出現によって、新しい考えかたが出来るようになりました。逆に偶然をつくり出せるようになったのです。これはそれまでの機械ではつくり出そうとなしなかった、そして作り出すことが困難だった、「偶然」を反復的に限りなく作り出すことが出来るようになりました。

試しにランダムな数字を次々と思い浮かべて書き留めてください。これが以外に難しいのです。なぜなら偶然は作るものではなく、起こること。意図的に偶然をつくり出すのはとても難しいものなのですね。

今私はこの偶然性を取り入れた映像というものに大変興味があります。始まりから終わりまで直線的な線で結ばれるリニアな映像ではなく、いつ始まってもいつ終わっても良いノンリニアな映像へ。ゲームともまた違った参加性を持った新しい映像。それはきっとこれまでのように、記録して再生する映像ではなく、見ている瞬間にリアルタイムに生成するものになるとおもいます。

そのためには高度なハードとソフトが必要になります。そしてその技術を皆で共有する必要があります。現状ではまだまだ簡単に作れるものではありません。しかしながら、最近の技術の進化とオープン化を見ていると、こういった映像を誰もが作れる時代は、もう夢ではなく、現実的なレベルに近づいたと思うのです。かなり希望的な予想ではありますが。

最先端の技術を使って、偶然を生み出す。ちょっと不思議な感覚ですね。でも、何か新しい表現に出会える予感がするのです。 そして作れるかもしれない予感がするのです。

 

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Emotional Design
ドナルド・A・ノーマン

誰のためのデザイン

日常のデザインが美しさ第一主義によって支配されているとしたら、 毎日の生活は目には楽しいかもしれないが、あまり快適ではなさそうだ。(中略) 「たぶん賞でもとっているでしょう」 というのはこの本ではけなすときの言葉として使われている。 それは、賞というものはデザインの一つの側面に対し与えられることが多く、使いやすさなどのその他の側面は無視されることが多いからである。「誰のためのデザイン」ドナルド・A・ノーマン

デザインは使う人のもの。まずは使いやすく、分かりやすいものでなければならない。時にデザインが悪いものが人を危険にさらすこともある。自己表現とデザインを同一視していた私には、衝撃的な内容でした。この本を読んでから、デザインというものに対する考えかたが広がりました。大げさにいうと人生を変えてしまった本なのです。 そんな彼が新たな考えかたを提唱しています。その内容はこれまで彼がふれていなかった点を、とくに美や情動について注意深く掘り下げたものになっています。

エモーショナルデザイン

多少使いづらいからって、それがどうだと言うのです。 ちょっと気をつければいいじゃないですか。そのポットはとても可愛くて、微笑んでしまうのです(中略) 驚くべきことに、美的に魅力的なものだと仕事がうまくできる、という証拠が得られているのである。これから示すように、人を心地よくさせる製品やシステムは使いやすいし、より調和のとれた結果を生み出す。「エモーショナルデザイン」ドナルド・A・ノーマン

同じ作者の本とは思えないほど、全く正反対の意見!

読み始めて私は混乱しました。それで一体、使いやすさと美しさはどっちが大切なのだろう。デザイナーはどちらに重心をおいて、ものを作らなければならないのだろうか。2冊を読んで感じたのは、使いやすさと美しさは相互関係にあるということです。使いやすさと美しさは、別のものではなく、一つのものではないか。

まずデザインの基本として、分かりやすさと使いやすさを実現しなければならない。しかし、使いやすい機能も、魅力的でなければ、誰も使おうとしない。素晴らしいデザインには、使いやすさと機能だけでなく、美しさや魅力的な見た目が必要である。魅力的にすると、使う人に正しい判断をうながし、使いやすさに最後の仕上げをすることができる。

美しさと機能を分離してはいけない。
外見と中身は分けて考えてはいけない。
それらは2つで1つ。

何か当たり前のことのようですが、遠回りをしてようやくすっきりと理解できるようになってきました。そしてこの2冊の本もセットにして考えるということなんでしょうね。10年越しに読んだ2冊の本が、今ひとつになる。何かちょっと感動的です。

無人島に生きる十六人
須川 邦彦

海鳥の声を聞き、海の風を感じる序盤。順調な航海を、自然の猛威が襲う中盤。そして場面は厳しい無人島へ。彼は逃げ場のないその危機をいかにして乗り越えていくのか・・。 主人公が無人島に漂着する、というストーリーは小説や映画など様々なもので表現されてきた。

私は小学生の頃にロビンソン・クルーソーを読んでからというもの、この漂流記というものが好きで、最近になってまた一冊読んでみた。それは未知のものへの憧れなのかもしれない。ただしこれはソファに座って安全な場所から想像する未知への憧れであって、生死の恐怖というものをすっかり忘れてしまっている状態での憧れ。実際自分が漂流したら、などとちょっと考えては見るのだけど、何もない状態で生きるための術をどれだけ知っているか、電気のない状態での自分の貧弱さを痛感してしまうのだ。

一番おしまいに水夫長は、ていねいに、一つおじぎをしてからいった。「私は学問のほうは、何も知りません。しかし、いくどか命がけのあぶないめにあって、それをどうやら無事に通りぬけてきました。理屈は分かりませんが、実際のことなら、たいがいのことはやりぬきます。無人島に生きる十六人

実際のことは分からずに理屈だけを知っている我々は、この老人からすれば貧弱そのものだ。もしくは「生きていない」ということになるかもしれない。経験からくる知識というものが、今の時代にはあまりにも少ない。 最近の子供の30%は夕日や朝日を見たことがないなんて。

せめて自分の子供には色々な経験をさせたい。バスタブを揺らす小さな波に揺られながら、そんなことを考えるのでした。 「無人島に生きる十六人」 海のベテラン達が無人島に漂流。 実直な人たちが繰り広げる気持ちの良い漂流記です。

新しい橋

2週間に一つの言語が消えていくらしい。

言葉は文化の象徴である。古くは植民地制度、今はグローバル化の流れにまきこまれて、少数派の文化が次々と消えていく。そして文化の多様性は巨大な世界企業の手によって、どんどん平均化していく。それは本当に幸福な事なのだろうか?

多様性を認めない社会、差異を認めない社会。それが何をもたらすのか、今の世界情勢を見れば明らかである。 宗教や文化によって、価値観は大きく異なる。一方で正義なことが、もう一方では悪にもなりうるのだ。そしてそのギャップを根本的になくしていくことは、文化と民族の否定につながることもあるために非常に困難である。

本当に必要なのは、異なるものの境界を越える橋である。

人類はこれまでの技術と知識を総動員して、この橋をつくらなければならない。 この橋がどのようなものなのか、新しい概念なのか、宗教なのか、政治的な仕組みなのか、誰も答えを知らない。でも私はそれが芸術やデザインであれば、と思っている。そして人間はこの橋をつくるために生まれてきた、と思っている。

世界の現代美術とデザインの中心軸とも言うべきMOMAがリニューアルした。映像とインターネット時代を意識した設備は、芸術とデザインが新しい時代に突入した証でもある。

そしてイームズをはじめとする20世紀のデザイナーがMOMAとともに歩んだように、ぼくらも新しい時代にふさわしい発想と表現に挑戦しなければならない。そしてその挑戦は人間同士の橋だけでなく、人間と環境の橋にもなるはずだ。

ジャングルは数千の生物が生と死の中で混ざりあって、つくり出された大きな世界。数えきれない異なるものたちが、大きくて豊かな一つの世界をつくり出している。ジャングルを彩る鮮やかな色のように、僕らは芸術とデザインを使って橋をつくるのだ。

Photo by Nick Fewings on Unsplash

好奇心と産業

世界的に有名な物理学の科学者が、研究をねつ造した。その研究がもし本当の事であれば、これからの物理を大きくかえるほどの、史上空前のねつ造であった。何故科学の分野で、学問の分野で、不正がおこってしまうのだろう?

残念ながら、科学は、かつてのように純粋に知的好奇心を満たすだけのものではなくなっています。今は企業が関わり、特許がからみ、役に立つ製品作りを求められています。科学は金儲けの材料ともなっているのです。 ノーベル物理学賞受賞者 ロバート・フランクリン

このコメントにはっとする。それでは芸術はどうか、音楽は?、スポーツは? 宗教は?純粋な好奇心からものを作っているだろうか。いや、今やすべては産業のためである。でも最初は好奇心から始まる。純粋なドキドキだったはず。先の事など考えずに、自分のすべてをかけて取り組んでいたはず。しかしそれが産業の中にとりこまれ、分野という枠組みに入れられて、利益というギブスをはめられる。 このギブスを外すためにも、まずは分野という枠組みを考え直さなければならない。極度な専門化を避けなければならない。

分野外のことを他人に任せすぎると、視野が狭くなり、大勢の中の一人になり、次第に身動きが取れなくなっていく。勉強の幅を少し広げて、2つを専門に。2つのエキスパートに。そしてそれを3つに、4つに。ビクター・パパネックが言ったように分野を貫いていかなければならない。

 

Photo by Greyson Joralemon on Unsplash

全てを見ている

私たちは無意識に、必要な情報だけを選択してインプットしている。膨大な情報の中から、重要な事だけに焦点を当てて、効率よく処理している。写真はその無視した情報も全て記録する。だから実際に見た印象と違う。本物よりも多くを物語るかもしれないし、逆に本物には到底かなわない事もある。

写真のプロたちはその焦点を強調して、私たちに新しい視点を見せてくれているのではないか。 そして、写真を見て驚くのは、これほど膨大な情報を一気に見ているという事実である。たとえばビルの屋上から街を眺めてみる。一体どれだけの情報が見えているのか。写真を撮ってみればわかる。小さな人影、無数の看板、ビルの窓越しに見えるオフィス・・・。

これを正確に文章で説明しようとしたら、それはもう膨大。 同じ事は自然の中でも言える。たとえば森の中の風景。幾重にも重なる落ち葉、無数の枝、小鳥たち、揺れる木漏れ日・・・。夜空はどうだろう。大きく見える月、輝く金星、何万光年も離れた数えきれないほどの星たち。

想像もできないほど巨大な空間。そして空間の中に無限に存在する情報。 脳は無視しているのかもしれない。でもその無限の情報を私たちは一気に視覚で捉えている。無限に広がる世界の情報が、光としてあなたの目に一斉に飛び込んでいる。

梶井照陰写真集NAMI

佐渡島の波を撮り続ける真言宗の僧侶。彼の作品に映っているのは私の知っている波ではなく、無限の表情を持った波。写真だからこそできる表現に圧倒されます。

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