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未来派図画工作のすすめ/自由ノート

少年少女オデッセイ
少年少女オデッセイ

少年少女オデッセイという作品を公開しました。1400年代にグーテンベルグが発明した印刷技術は、またたくまに宗教、教育、そして社会そのものを一変させました。それはまさに印刷による人間の意識革命だったといえるでしょう。

この印刷が発明された1400年代から現在までの約600年を、偉人達の足跡をたどりながら振り返ります。歴史は点の集合から、線の連なりへ。20世紀ボヤージに続く、歴史をテーマにした2作目の作品です。

グーテンベルグの銀河系に、人々の生きた時間が一本のラインとなって表れては消えていきます。意外な人が意外な人と同時代を送っている。時代の移り変わりとともに人々が必然のように入れ替わっている。

やがて個々のラインは、一本のラインのように感じられるから不思議です。600年という歴史は、それほど昔のことではないことに、私自身が気づきました。 まだ正式公開準備バージョンですので、データ量が想定の70%程ですが、今回は作りながら公開していこうと考えています。

よろしければ誤字脱字、バグのレポートをしていただければ助かります。

本当のインターネット

WWW(ワールド・ワイド・ウェブ)が一般に公開されて15年。今まさに、インターネットが正体を表そうとしている。これからインターネットはWeb2.0時代に突入すると言われています。情報はこれまでの階層による分類から、ユーザー主体の分類が主流となり、メディアはユーザーが参加することによって初めて成立するようになるでしょう。

また、ソフトウェアは作る側と使う側が、一体となり、協力してツールを改良し続けていくようになるはずです。新しい情報交換の形。そしてそれが生み出す、新しい経済・教育の形。もはや、既存のメディアをデジタル化するだけの時代は終ったのです。

必要なのは山のようなたくさんのもの、ではなく、標準化されたみんなで使える1つのもの。そしてその標準は特定の企業ではなく、みんなで作り上げること。ラリー・ペイジ (Google)

GoogleがMITで設計された100ドルPCを、世界中の子供たちに1億台配布すると発表しました。おそらくアプリケーションはこれからすべて、ブラウザベースになるでしょう。極端に言えばWEBブラウザがあれば、大抵のことができてしまうかもしれません。

次第にプラットホームは標準化され、全てのデータもオープンで共通のものになるでしょう。次の時代、OSやソフトウェアの主導権を握るのは、マイクロソフトやアップルといった特定の企業ではなく、世界中のユーザーであることは間違いありません。

インターネットには膨大な情報が日々、蓄積されています。 その無数の情報が、今、一つのものになろうとしているような気がします。 そして、それこそがインターネットの正体。 コンピューターはその正体を使うためのツールではないか? そんな気がしてなりません。

Photo by NASA on Unsplash

倉庫を控室に

iDiveというソフトの開発に参加しました。このソフトはホームビデオの管理をするソフト。たしかにホームビデオの管理はなかなか難しい。撮りっぱなしになっていたり、テープをなくしてしまったり。iDiveはそんな思い出の映像を整理整頓して保管し、簡単に検索できます。

データベースと連動してQuartz Composerでスライドショー。これまでのシンプルな閲覧方法よりも、動きのあるモーショングラフィックスのようなスライドショーを目指しました。

フランスの開発チームと約1ヶ月のやりとりの中で、開発者の一人が、しきりに「このソフトにユーザーの人生を語らせたい」と言っていたのが印象的です。きっとこれから、ほこりをかぶっていた思い出の映像が、彼らの作ったソフトウェアで輝き続けるにちがいありません。

手探りで進めたコラボレーション。それはまるで、データベースという無機質な倉庫を、楽しい舞台の控え室に変える作業のようでした。 よく考えて見ると人生もおなじ。近い将来「晴れ舞台に出る」と思っていれば、毎日の仕事場は控室に変わる。すべての仕事は晴れ舞台のための準備に過ぎない。

さてさて、これで今年の制作活動は終わり。思い返せば、今年もネットを通じて様々な人と知りあうことができました。すべてが来年のための準備になればいいな、と思いながら。ありがとう2005。

Photo by Mr Cup / Fabien Barral on Unsplash

公害

経済設計という言葉がニュースをにぎわしている。ぎりぎりまでコストを削減し、利益を優先する。その結果として作る期間はどんどん短くなる。作らせる人間も、作る人間も、完成品のクオリティよりも効率を求めるようになる。

それを続けていると、最後には作る事が嫌いになる。作る人は、完成品はどうでも良くなって、それに費やした時間への代償を求めるようになる。作らせる人も、何を作るかなんて関心が無くて、利益を上げることしか興味がなくなる。みんな仕事が嫌いで嫌いでしょうがない。いつもやめたいと思っている。

われわれは、デザインのまずい品物や構造物で地球そのものを汚すのをやめなければならない ビクター・パパネック ー 生きのびるためのデザイン

利益を追求する事、コストを削減する事は企業として当然のことだ。しかしそれだけが目的になるのであれば、もはやそれは公害である。私たちはもう一度、何のために利益を上げるのか?という根本的な事を考え直さなければならない。そして何のために作るのか?ということも考え直さなければならない。これはつまり、何のために生きているか?ということなのだ。

学生に戻りたい?
知識労働の生産性は15世紀のグーテンベルグによる印刷革命以来、大してのびていない。教室での教え方を例に取っても、中身は変わっていない。しかし、ついに大きな変化がくる。情報技術のおかげだ。いよいよ再び技術が教育を通じて文明を変える。価値ある授業ならば、今までの何百倍もの人が受けるようになる。P.F.ドラッガー

イギリスの映像学校から依頼があり、Quartz Composerのサンプルを提供しました。学校と言えば、最近私は『今学生だったら、すごく勉強するのになぁ』とため息をつきます。まわりの知人も同じようなことを考えているようですが、今となっては学生時代の不甲斐なさを後悔するのみです。

それにしてもどうして学生中は勉強が嫌いだったのに、今さら勉強したいのでしょうか。学校から与えられた教科書と課題を、勉強する理由も考えずに、無理に学んだ学生時代。でも、今は違います。明確に知りたいことがある。今知っている事の原理を知りたい。そして今知っている知識をどう応用できるか知りたい。

それは分野をまたいでいる。様々なジャンルが組み合わさって社会の中で使用されているから。だから私に必要な教科書は、私だけに役に立つ教科書になるでしょう。一冊の教科書で何人もの生徒が教わるのではなく、私だけの教科書、私だけの教室、私だけの学校。生徒一人一人に最適化された教育。 そんな学校はあるわけありませんし、現在の教育制度を考えれば絶対に不可能です。

しかしインターネットを使ったらどうなるでしょう?地域や学校の壁を越えて、そしてジャンルを越えて新しい教育の概念が生まれたら。世界中の知がネットでつながり、西洋も東洋も、宗教と科学ですら混ざり合った、何か新しい教育が生まれたら。

もしドラッガーの言葉を信じるのであれば、不可能な事ではないかも。もちろん遠い未来の事だとは思いますので、そのときまで知識欲が衰えていない事を祈りつつ、「まさかこの分野までGoogleに頼ってしまうのかしら世界は?」などと考えてしまう今日この頃。

Photo by kyo azuma on Unsplash

 

構造をデザインする

Quartz Composerを使って、映像用ソフトのプラグイン「Futurismo Quartz」を作りました。Noise Industriesという熱意のある人たちに賛同して、モーショングラフィックス作品を映像ツールとして再開発したのです。すべてがはじめての経験ですので、手探りでの制作作業となりましたが、実感したのは「デザインが、もはやデベロップになる」ということでした。

自由に変更することができる作品。多種多様なバリエーションを生み出すための作品。汎用性を持った私の映像は、もはや私の作品ではなく、ユーザーの作品となるでしょう。ここで重要なのは、構造をデザインするという事です。表面や内容ではなく「構造」です。もはや表面や内容はユーザーにゆだねるのです。リアルタイム映像にとっては「考え方」そのものが作品の本質なのです。

とりあえず難しいことは抜きにしてサンプルをご覧ください。今振り返ってみると、なんだかとても手探りで作っているなあ、と自分自身で感じますが、ほぼ一ヶ月強、私のつたない英語に付き合ってくださったNiclas氏と夜な夜な作った、ちょっと変わったモーショングラフィックス達です。

 

https://news.mynavi.jp/article/20091006-a074/
はじまりはいつも楽しい

「デザイナーがプログラムする時代に、我々プログラマーはどうしたらいいのだろう」「プログラムの知識がない私は、これからデザイナーとしてやっていけるだろうか」 最近私のまわりで、このような対照的な意見を聞くことが多くなってきました。

私自身も、今までやってきたことが、これからの時代に通用するのだろうか?とか、技術の変化についていけるのだろうか?という不安がいつも心の片隅にあるのは事実です。

メディアテクノロジーの進化は、これまで技術の壁で隔てられた「分野」という枠組みを無意味なものにするでしょう。特に情報デザインの分野では、考えることが作ることに直結していく可能性があります。もはや考える時間があったら作った方が早い場合があるのです。

デザイン+デベロップ。これからの情報デザインに必要なものは、表面と内容を作るデザイン知識と、構造を作るデベロップの知識が必要です。iTune Music Storeを眺めていてそれをひしひしと感じます。それはまさに思想と技術が一体となったデザインではないでしょうか。

時代の流れの中で、もし自分のやってきたことが無駄になるとか、 終わってしまうような感覚を感じている人がいるとしたら、それは違います。他の分野の人が、あなたの知識と経験を必要としているのです。だから変化を恐れてはいけない。それは終わりではなく、新しい分野のはじまり。

いつの時代も、どんなジャンルも、はじまるときがいつも楽しい。

漫画だって映画だって、ロックだって歴史に残る名作は、その分野がはじまったときに作られる。今使っているソフトウェアの多くも、パソコンが始まったときに作られたものがほとんど。 変化によって、私たちは常に初心者にもどれる。すべてがエキサイティングだった初心者に戻れるのです。あのプールにはじめて入る時のような気持ちに。

一元的に見る
柳沢桂子
あなたもありません。私もありません。けれどもそれはそこに存在するのです。ものも原子の濃淡でしかありませんから、それにとらわれることもありません。「生きて死ぬ智慧」柳沢桂子

個人や社会といったレベルを遥かに超えて、地球や宇宙までも全貌できるような視点。そんな巨視的な視点から、ものを構成する最も小さな単位について考える。果たして人間は本当にこのような考え方ができるのだろうか。もし悟りというものがあるとすれば、このような考え方に到達することなのかもしれない。

鐘の音、木魚の音、お経を読む声。我々の周りには仏教というものが自然に存在している。あまりにも生活に密着しているから、気に留めることもない。そういうものだと受け入れている。だから般若心経がどんな意味を持っているのかを考えた事もない。かつて宗教は科学と対立する存在だった。宗教を信じるか、科学を信じるか。信じた方がその人にとっての真実となる。さて、どちらが人々を幸せにするのだろう。

しばしば戦争の原因となるのが宗教で、戦争を実現するのが科学である。その一方で人々の苦しみを精神的に救うのは宗教で、物理的に救うのが医療などの科学である。 短絡的だが、そう考えてみると、宗教と科学は対立するものではなく、元々一つの異なる側面ではないかと思い描く。

この般若心経の科学的な解釈は、そんな大きな一つのものを私の心にぼんやりと浮かび上がらせるのでした。

 

https://www.amazon.co.jp/dp/4093875219
WWDC

今WWDCというイベントがサンフランシスコで開かれています。これは一年に一度、世界中の開発者が集まり、新しい技術について勉強するイベント。そんな中、昨日行われたグラフィックスのセッションで、私のすべてのQuartz Composer作品をサンプルとして使っていただきました。

Appleの担当の方からのメールを信じると、かなり好評だったようですが、3000人ものデベロッパーの前で、自分の整理されていない作品の中身が公開されたかと思うと、うれしい反面、ちょっと恥ずかしい気持ちになります。

ツールを使い始めてから一ヶ月。その間にサンプル作品を15。雑誌に紹介文を書く。WWDCに作品提供。今までにない速度でいろいろな体験をしています。作品の制作、公開、反応が瞬時におこるのです。 まるで料理を作ってその場で食べてもらっているかのような感覚。

料理が瞬間になってきた場合、その味を左右するのは素材と、下ごしらえ。特に下ごしらえがとても重要になってくるでしょう。それは技術的な事はもちろん、なんといっても知識や考え方が大切だと実感します。そう考えるとここ一ヶ月コンピューターに向かいっぱなし。 散歩がてら図書館にでも出かけてみましょうか。

 

コンピュータは何の道具?

仕事で使う場合は、その仕事のための手段としての道具。しかし個人で使うパーソナルコンピュータという考え方であれば、もっともっと遊び心があってもよい。コンピュータでしか体験できない面白さや心地よさ、そして知的好奇心をかき立てるような道具であってほしい。

今考えるとパソコン創世記の方がよっぽどアイデアに満ちあふれていたのではないだろうか?なぜか? たぶんそれはコンピュータを使う事がイコール作る事だったからでしょう。 作りながら使い、学び、楽しむ。それはまさに「遊び」。

子供が遊びを通して成長するように、私はなるべくこの便利な道具を手段としてではなく、遊び道具として使っていきたいなと思います。 そしてその遊び道具で、何を作るかと言ったら、やはり遊び道具を作るのです。

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