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未来派図画工作のすすめ/自由ノート

糸のようなもの

震災後、携帯電話が復旧し始めると情報収集に大きく役立ったのがtwitterでした。テレビでは被害全体の情報、ラジオでは地域の情報、そしてtwitterではピンポイントで個人情報を知る事が出来たのです。あまりの情報の精度の高さに驚く事もありました。自立分散型の情報網の強さを見せつけられました。

このtwitterで激しく飛び交っていた情報の一つに安否情報がありました。皆が皆を探している。そういえば震災当日の夜を過ごした避難所でも、人を捜す声が暗闇の中で響き渡っていました。それは切れかかっている糸を結び直すかのようなコミュニケーションのように感じられました。

糸がつながっている事、これは私たちにとってとても重要な事なのです。

地震発生の数時間前、私は宮城県美術館にいました。展示中の作品「光線のワルツ」のシステムがちょっとおかしい、という連絡を受けて確認に出向いていたのです。私はそこでシステムの調整をして、その最中に訪れた年配のお客さんに、簡単に作品の解説をしました。

「絵が変わるのね、不思議ねぇ」という言葉が最後に聞いた作品への感想になりました。 その後作品は地震の影響で破損し、美術館も長期間の休館となりました。今思うと、誰かが最後に作品をもう一度見ておきなさいと、呼んでくれたような気もします。

10年ほど前、個人作品を美術館に展示できるようになりたいなぁと、漠然と考えていました。もちろん当時は実現するはずもないと思っていました。映像からインタラクティブ作品へと、作るものを変えてきたのも、もしかするとそれが一つの要因だったのかもしれません。

そういった意味でいうと、この光線のワルツという作品は、長年の目標の一つをかなえた作品でもあったのです。 ですから、そんな作品の最後に立ち会うかのように、自分で見て、自分で体験する事が出来たのは、偶然とはいえ本当に良かったなと思います。未だにあのときの美術館の光景が目に焼き付いています。

たまさかの美

仕事の帰り道の電車。トンネルを抜けると、視界いっぱいに花火が広がった。電車は、止まる事なく花火の脇をすり抜けて林の中へ。華やかな夜空は一瞬だけ視界に入り消えていった。

その一瞬がスローモーションのように心の中に残っている。なぜだろう、涙が出そうになるほど、その一瞬に心が動かされる。

記憶の水槽

角砂糖を見るとカフェを思い出す。白衣を見ると注射を思い出す。 人それぞれ連想の仕方は異なるとは思いますが、私たちの記憶は単体で保存されているわけではなく、関連する記憶同士が繋がって保存されているらしいのです。

それらの記憶はまるで水槽の中に入れられるように、どんどん沈んでいく。最近の出来事はまだ水面近くにありますが、数年前の事はずいぶんと深い場所まで沈んでいる事でしょう。 でも、ちょっとしたきっかけで、その水槽はかき混ぜられます。

たとえば思い出の写真を見たりすると、それに関連する記憶が、連なって水面近くまで浮上するのです。その記憶が心に残るものであればあるほど、すっかり忘れていた事まで引き連れて浮上してくるに違いありません。そしてそのとき、記憶の水槽の水は、こぼれんばかりに大きく揺れているはずです。この揺れが感動を作り出すのではないでしょうか。

自分の経験と照らし合わせて、想像し、思い出し、予測することで、感動が生まれます。こう考えると、思い出を作れば作るほど、水は大きく揺れて、感動も大きくなる。年を取って涙もろくなるのは、思い出の数が多くなるから、かもしれません。

Photo by Sime Basioli on Unsplash

いい月だね

忙しいという言葉を使うのは好きではなくて、忙しそうな人だと思われるのも嫌いなのですが、カレンダーに細かく書かれたスケジュールに負けて、忙しそうにしている自分がいる。

特にここ数ヶ月は、色々なことが目まぐるしく過ぎ去って、自分を忘れてしまいそうでした。 「いい月だね」と一行のメールを貰う。

最終電車から降りた私は、ふと澄んだ夜空を仰いでみました。そこには大きな月。重なって流れる霞。音の無いひんやりとした夜。なんだか肩から力が抜けて、ちょっと立ちすくんでしまいました。

千年前の人も同じものを見て、千年後の人も同じものを見る。 この月を見て、きっと美しいと思う人がいるだろう。私と同じように立ちすくむ人もいるだろう。大きな時間の流れの中で、私達は人知れず共有しているものがある。

でもそれは、とても長い長い時間の流れの中にあるから、気づかれない。 せめて数年でいいから、人の心に浮かぶ月のような、そして自分の心に浮かぶ月のような、何かを作ることに携わっていければと思う。

 

Photo by Wolfgang Hasselmann on Unsplash

いつ完成するの?

最近、数人のデザイナーや作家の方に「どんな時に完成したと実感しますか?」と聞いてみました。

締め切りが来れば完成したことになるという人もいれば、ずっと完成した心地がしないという人もいる。 イベントや展覧会などを企画されている学芸員の方は、「自分が想像していた状況よりも良い状況になった時」完成を感じるという。

なるほど、これは面白い感覚。この場合、自分一人では決して完成しない。いくら頑張っても完成の一歩手前までしか作れない。でも、そこまでベストなものが作れれば、あとは参加する人が、自然に完成させていく。

とある作家の方は「作りはじめた時」完成を感じることがあると言います。作品に手を付けた瞬間に、直感的に完成が見えてくるような感覚だそうです。書の世界などはまさにそうなのかもしれません。

筆を下ろした瞬間に書き終わる。私も良く考えてみると、お気に入りの作品は、ものすごく短時間で作り終わっています。逆に想像よりも時間がかかってしまった作品は、自分の中ではちょっとイマイチなものが多い。色々付け加えたり、修正しているうちに、なんだか最初の初期衝動がぼやけてしまうのでしょうか。

それにしても、もし作りはじめた時に完成するという事があるとしたら、頭の中は常に作品を作り続けている状態にあるということですよね。実は、その作品を作るずーっと前から、その作品を作るために考えている。

だからある意味で、作り出される全てのものは、その人の生きてきた時間全体が、製作期間なのかも知れません。 そしてその作り手の人生全体が、見る人の人生全体と交差して、初めて完成する。いや、交差することが作ることの目的なのかも知れない。そう考えると、締め切りの短い仕事でも、すこしは落ち着いて取り組める?(いや、それは無理!)

Photo by iam_os on Unsplash

気配

雨が降りそうとか、誰かがこっちを見ているとか、はっきりと理由もないのに、何となく分かる事がある。

そんな「気配」を無意識に感じながら、人は判断し行動している。 たぶん意識的やっていることよりも、無意識にやっていることの方が圧倒的に多いのではないだろうか。

たとえば、今この瞬間のあなたの両足の位置は意識的に決めましたか?今日あなたは何回、意識してまばたきしましたか?私が生まれて老いていく事は、私が意識的に行ってきた事ではないのです。

意識は、無意識と無意識の隙間にある。意識する事が多いほどストレスを感じる。意識しなければならないコミュニケーションほど疲れるものはない。一言も話さず、自然に一緒にいられる人は、そう滅多にいない。

良いデザインは無意識のうちに人を導く。様々な技術や視覚効果、しくみを使って、自然にゴールへと誘導する。そして、決定的な判断を下さなければならない局面でのみ、意識を集中させる状況を作る。

ようするに的確な「気配」を作り出している。 そしてこの「気配」は「気配り」から作り出されている。あぁ、同じ漢字なんだと感心する。たぶん本来は、日本人が得意としていた心得なのでしょう。毎日のニュースを見る限り、今は最も苦手な事なのかもしれませんが。

 

Photo by Tanya Trofymchuk on Unsplash

あーうれしいわ

1968年、障害を持つ子のめんどうを見る養護施設として、ねむの木学園が設立されました。その学園の生徒54人による作品展が、森アーツセンターギャラリーで開催されています。

絵を描いて持ってくるだろ。その時なんて言うの?「上手いね」とか、「ここがいい」とか言うの?

言いません。「これ上手く描けた」って言ったら、子どもは、あ、これでいいのかとその場所で終わるような気がしますから

何て言うの?

私は「あーうれしいわ」って言います
画集より

子供たちと先生のエピソードと、色鮮やかで繊細な絵に圧倒されて、私は言葉を失いました。そして表現とは一体なんだろうと、自分は何のために描くのだろうと、自問自答してしまいました。

すると会場の奥からコーラスが聞こえてきました。子供たちと先生が歌を唄っています。音楽が絵を輝かせ、絵が音を弾ませているように思え、生き生きと唄う姿は、まるで描いているような姿に見えてきました。

 

「奥ゆかしさ」という言葉には、日本の一つの美意識が現われている。完全に隠れているわけでもなく、はっきりも見えない。奥にある何か。その静かで深いたたずまいに惹かれるのである。

西洋では空間をさえぎるために、壁やドアには絶対的な遮断性を求める。しかし日本では、ふすまや障子といった、薄い膜のような、いわば相対的で変容可能なものを使用してきた。

薄い膜の重なりは、そのすき間に「間」を作り出す。それはタイミングであり、スペースであり、心でもある。すべての距離感の均衡。存在と認識の距離を相対的に変容させるものだ。

私達は、自然や人、物、事、全てのものとの間に「間」を作る。その「間」がどんなものかで、対象への価値観が変わる。幾層にも重なった「間」の美しさが、奥ゆかしさを作りだす。

奥そのものの美しさではなく、「間」の美しさが重要なのだ。 それは過程と結果の関係に似ている。結果の美しさは、過程の美しさなのだ。結果へたどりつく道。茶道。華道。武士道。

そう考えると、人とは、人の歩む道。 生きてから死ぬまでの「間」が人間。

Photo by Fakurian Design on Unsplash

人知れず忘れる

自分一人でいるときの記憶は、たぶん自分しか覚えていない。

通勤途中に野良猫と目が合ったこと。風邪で寝込んだときに考えたこと。飛行機雲をぐうぜん見つけたこと。私たちは、そんな自分だけの思い出を、人知れず忘れていく。

人それぞれ感じ方も考え方も違う。だから、全く同じ記憶を、他人と共有することは不可能である。そもそも同じ時間に、同じ目で、同じものを見ることはできない。そう考えると、人間は徹底的に孤独な生き物なのだ。

あらゆるコミュニケーションというのは、その孤独さを少しでも緩和するためのものなのかもしれない。 強烈な思い出であれば、そう簡単に忘れない。

旅。祭。いろいろなイベント。

記憶が流れていかないように、定期的に、ことあるごとに。いつもと違ったことをする。 人と同じは嫌だと強く思う一方で、人と一緒でありたいという強烈な気持ち。社会はその2つの気持ちを成立させるための大きな装置なんだと、最近思うのです。

Photo by Siora Photography on Unsplash

最初の気持ち
あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである。マハトマ・ガンジー

何かをはじめてから、途中で何度か「なぜこんな大変な事をはじめてしまったのだろう」とちょっと考え直してしまう事がありませんか?

私の場合、大抵は深夜、睡魔と戦っている時、しかも思うように作れない時に思います。自分の実力を棚に上げて、始めた事自体を疑問に思い始めてしまうのです。

先日展示したPeople Forestという作品も、なかなか作れずに苦労しました。一度完成させたものがどうしても気に入らず、締め切り間際に作り直してしまいました。そのために時間や素材を無駄にしてしまったのですが、一度作り直す事で気持ちを整理する事ができました。

(そういえば20世紀ボヤージという作品も、最初は地球というモチーフを避けていたので、現バージョンとは全く違ったデザインでした)

もしかしたら「本当に最初に作りたかったのはどんなものか?」という純粋な初期衝動を、変えないために作るのかもしれません。いや、作るという行為を通して、その最初の気持ちが一体どんなものなのか確かめるのかもしれない。

そういえば自問や自己確認というのは普段の生活ではなかなかやらないし、やれない。だからわざわざ始めてしまうのかもしれない。自分にとって大変な事を。(やっかいですね) さて、みなさんはどうですか?

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